小野田寛郎と鈴木紀夫 

一昨日(5月9日)の朝日新聞に面白い記事が載っていました。鈴木紀夫という冒険家が、フィリピンのルバング島で小野田寛郎さんを発見し終戦を理解させ日本に連れ帰った話です。

鈴木 紀夫
 (1949年4月 - 1986年11月)は、日本の冒険家。千葉県市原市八幡出身。法政大学経済学部中退。

経歴
 主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至る放浪の旅に出る。1972年12月一時帰国。
 太平洋戦争終結後も、終戦を信じずに帝国軍人としてゲリラ活動を展開していた残留日本兵の小野田寛郎に逢うため、フィリピン・ルバング島に向かう。
  1974年2月小野田との接触に成功。ルパング島には日本語が話せる原住民が多かったため、日本語が話せるだけでは日本人と判断されなかったため初対面の 際には小野田に銃を向けられて発砲される直前だったが、毛の靴下にサンダル履きという原住民にはない珍妙なスタイルであったため、事なきを得る。この接触 により、小野田の救出が現実味を帯び3月に小野田は帰国。かつて「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っており、最後に残った「雪男発見」に情 熱を注ぐ。
 1975年7月ヒマラヤ・ダウラギリ群の南東稜コーナボン側斜面の4200m付近に5頭の類人物を望遠観察したと主張。
 1978年結婚。結婚後も定職に就くことはなかった。
 1986年11月ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難。
 1987年10月7日遺体発見。享年38。
関係者の言葉
 鈴木つね子(母親)
「よかったなと思いますよ。いいじゃないですかねぇ、自分の好きなことやって」とテレビ番組で語っている。
 小野田寛郎
 鈴木の死について、「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語っている。小野田は慰霊のためにヒマラヤを訪れている。

小野田少尉と冒険家鈴木紀夫
 戦後三十年、祖国の敗戦を知らずフィリピンのルバング島で戦い続けていた小野田寛郎さんを救出した 冒険家、鈴木紀夫さん(38)は昨年、ネパールのヒマラヤ山中に「雪男」を探し行ったまま遭難死亡が、さる昭和62年10月、確認された。

「もしあの時、鈴木君に遭遇しなったら、私はまだ帰国ずることはなかっただろう」と小野田さんは鈴木さんに恩義を感じており、そのを心から悼んでい る。二人の友情は、十三年前から続いていた。小野田さんは、ブラジルか訪日したのを機会に、来月三日、ネパールの遭難現場に飛ぶことを決意した。「奴の大 好きだった酒たっぷりかけてやる」と、小野田さんは言い残して、カトマンズに向かった。

 当時昭和49年、まだ弱冠二十五歳、鈴木さんの意表を突く作戦が小野田少尉の救出に成功した。当時鈴木青年はのヒッピーだった。大捜索だから小野 田さんは、まずまず懐疑的になっているのだろう。オレだったら、「小野田さんの占領地」に一人で入って行って、野営していれば、「縄張りを荒らすやつは誰 だ」と向うからから来るのでなないか、と鈴木は考え、単身ルバング島へ出かけた。

 この読みはピタリと当った。鐘や太鼓の大騒ぎの救出作戦は、小野田さんに警戒心を抱かせて効果がない。日本政府の一億円もかけた救出作戦のまちがいが担当者にはわからなかった。日本の敗戦を知らずに30年間も戦い続けた小野田少尉は、鈴木さんの読み通り、現れた。

 「もし、奴(やつ=鈴木)があの時、靴下にサンダルという妙な格好していなかったら、撃ち殺していただろう」。なぜなら、フィリピンでは、靴下をはく階級はサンダルなんか履かない。必ず靴を履くから。

 鈴木さんの方も、実際に小野田少尉に銃を突きつけられると、動転、「大男が現れた」と震えあがった。小野田少尉は一六〇で小柄な方だが、鈴木君は驚いたから、よほど大きい人に見えたのだろう。

 二人はお互いに警戒しつつも、夜を徹して語り合った。信頼関係を築き、翌朝「小野田さんを見つけたという証拠に一緒に写真を撮りたい」と言った が、鈴木君は機械に弱く、セルフタイマーの扱いがうまくいかず、カメラが趣味である小野田少尉に手伝ってもらって撮ったのが、この写真である。「だらしが ないぞ」と小野田少尉に叱られた鈴木君である。

       鈴木紀夫.jpg

         その時撮られた写真

   (nozawa22HP引用)

 

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