管弦祭

 昨日(8月4日)、宮島に「管弦祭」を見に行きました。広島に住んでいながら生まれて初めての「管弦祭」でした。3時過ぎに宮島へ渡り本日の旅館「宮島 岩惣」まで歩きました。「平清盛」ブームで商店街は人で溢れていました。「岩惣」に着きチェックインをすると知人の好意で「離れの間 秋錦亭」を取っていただきました。

「岩惣」
 安政元年(1854年)に岩国屋惣兵衛茶屋として創業された150年余の歴史を誇る老舗旅館です。初代岩国屋惣兵衛が弥山麓の紅葉谷の景観を多くの人々に愉しんでもらいたいと開拓を進め旅館業も発展させました。
 
 8時に旅館を出発し、旅館の用意していただいた船に乗り、「地御前」まで「漕船(こぎぶね)」・「御座船(ござぶね)」を迎えに行きました。そこでの神事の後、対岸の「長浜神社」まで「漕船(こぎぶね)」・「御座船(ござぶね)」と一緒に行きました。手漕ぎの船なので1時間以上かかりました。

 長浜神社では800人以上の人が提灯を持ち迎えていました。神事を終え、次に「大本神社」に向かいました。大本神社でもたくさんの提灯が迎えてくれました。そこでの神事を終えクライマックスの「厳島神社」に向かいました。我々も船を下りて厳島神社の回廊に向かいました。厳島神社の回廊は人で溢れていました。回廊の中心部での「江波漕伝馬保存会」の船を狭い範囲での3回回しは圧巻でした。

 その後、「御座船」の棹による3回回しが有りました。終わったのは12時を過ぎていました。

 初めて、「管弦祭」と言う平安絵巻を見物しました。雅楽器の音色に酔い船遊びの優雅さに触れました。時間がゆっくりと流れていました。

管弦祭
 旧暦の六月十七日大潮の日に、世界遺産である宮島厳島神社で御神体の海上渡御を目的とした、十日間に渡り繰り広げられる、瀬戸内海を代表する海の祭りです。(管弦祭の概要)
 平安時代、貴族たちは 池や河に船を浮かべて管弦の遊びをしていました。 管絃祭はそれが海上渡御となったともので、平清盛が信仰する厳島神社に移し、神事として行うようになったと言われています。大阪天満の天神祭、松江のホーランエンヤと共に 日本三大船神事のひとつです。


御座船(ござぶね)
 御座船は昔、一隻の大きな船で、櫓も六丁ついており、自力で航行していました。現在は三隻の和船を横一列に並べてつなぎ、一隻の船として使います。また、櫓はついておらず、江波漕伝馬船と阿賀町漕船によって曳航されています。船の上には、板が敷き詰められ、さしずめ大きな舞台のようで、屋形が組まれ艫飾りをつけ、旗、幕、提灯などで飾りつけられます。 御座船で使われている和船は、古くから造船で栄えた倉橋島本浦で、1707年から船大工たちにより奉納されてきましたが、奉納が難しくなった大正十二年に「厳島管絃船倉橋御用講」をつくり、毎年、新造しては祭りの後に売却する方法(まだ和船が漁業の中で主流だった頃は、管絃祭で使った船は大変縁起が良いということで、珍重されていました)で継承してきました。 しかし、和船の需要が無くなり、それも難しくなったので、昭和三十七年から厳島神社が直接発注し、管絃祭専用の和船を持つことになりました。
 
 
漕船(こぎぶね)
 昔、管絃船は大きな船一隻で、櫓が六丁ついており、自力で航行し、祭りを行っており、漕船はありませんでした。時は元禄十四年(1701) 管絃船が地御前神社から宮島、長浜神社に戻る途中に暴風雨にあい、転覆寸前になりました。 その時、暴風雨を避けて船がかりしていた阿賀村の「岡野喜右衛門」の鯛網船と九州からの帰途、厳島神社に参拝しようとしていた江波村の「古川屋伝蔵」が伝馬船を降ろして、二次災害をもかえりみずに管絃船を救出しました。それ以来、阿賀と江波の両村が管絃船を曳航して祭りが行われるようになりました。また、江波村の方が先に管絃船に着いたので、祭りでは先頭で曳航することとなっています。阿賀の船は鯛網船であったことから現在でも六丁の櫓を用い、江波は伝馬船であったのでその形を残した救難船で十四丁の櫂を備えた伝馬船です。現在も管絃祭の御座船を曳航する役目は、呉市の阿賀漁協と広島市の江波にある漕伝馬保存会が引き受けています。

 

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