昨日(8月6日)は「平成24年(2012年)平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)」でした。もう67年経ちます。私は9月3日で66歳となります。
昭和20年8月6日当日、母は、私立「祇園高等女学校 ⇒ 大下学園祇園高等学校 ⇒ (廃校)」に勤務していました。8時15分ぴかっと光った途端大きな音がして学校の廊下に立っていた母は、爆風で10m位飛ばされたそうです。皆さんで話をすると、アメリカの新型爆弾が広島に落ちたと言っていたそうです。時間が経つと広島方面から焼けただれた人々が親類縁者を頼ってどんどんと来られたそうです。
母は、3日後から現在の本川小学校に病人の看護に出たそうです。そこではやけどをした人、けがをした人沢山収容されていたそうです。毎日亡くなる方が出て、グランドには死体の山が出来たそうです。
母の仕事は、やけどをした人・怪我をした人にヨーチン・赤チンを塗る仕事でした。痛がる患者さんにそれを塗る仕事は大変つらかったと話していました。1週間ぐらい経って、かがんで傷口に顔を近付けて薬を塗ったため、眼が見えなくなったそうです。(二次放射能を受けた)それから一か月自宅で寝ていたそうです。寝ている間訳が分からず、「ああ、一生光を見れない体になった」父にどのように言おうかと考えていたそうです。
父は九月になって九州から復員してきました。宇品港の降り立って横川まで見えたそうです。おどろいたのと「ああ広島はこれで終わりだと」思ったそうです。九州の部隊から帰るとき、軍の倉庫には色んな物資が沢山あったそうです。帰りたい思いだけだったので、一番軽いたばこをリュックいっぱい詰めて帰ったそうです。歩いて帰る途中、沢山の人と逢ったそうです。市の中心部では土地の縄を張って土地を確保していました。その中の一人が「背中におっているたばことこの土地を変えてくれないか」とも言われたそうです。その時期もう、広島には七〇年間草木も生えないと思われその話が広島中駆け巡っていたそうです。「その時、たばことその土地をかえていたらなー」と父は言っていたのを思い出します。(八丁堀付近)
父が母と会い、一生この人を背負って行かなければならないと、覚悟したそうです。母は約二カ月ぐらいで見えるようになったそうです。しかし一生目は弱かった様に思います。
沼田町伴では、南の空からトタンや紙(紙幣を含む)が大量に降ってきたそうです。我が家は親戚が沢山疎開をしてきて大家族になって食べ物が大変だったそうです。その中で私は生まれました。
今日書いたことは母が80歳代後半になって初めて話してくれました。もうあのことは思い出したくないとも言っていました。
その母が昨年11月に90歳で亡くなりました。今年の過去帳に掲載していただき、記念碑に入りました。妻も今年の式典には参加しました。今年の式典は感慨深い式典となりました。