左右

 先日、西風新都新春ロードレースの開会式の時、来賓を左右どちらに並んでもらうのが正解かと言う話題が出ました。左右と言うように(右左とは言いません)日本は古来から左が優位とされているという結論でしたが、どちらから見ての話かと言う疑問が出ました。主催者側から見るのか、選手側から見るのかという事ですが、見る側が変わればま反対になります。結論的に言いますと主催者側から見て左側が来賓席のようです。これは左手で心臓を守るため、表の手の働く右側で他人と接する方がよいからと言われています。また中国で生まれ日本にも伝えられた基本的な哲学思想として陰陽五行説があります。自然界のあらゆる事象を陰と陽、五行に当てはめて分類します。易や風水もここから生まれました。左は陽で右は陰になります。気功や太極拳でも初動作は、左から始まります。「左に心臓があるからだと」と言われています。しかし、左遷・私の右腕と右優位の言葉もあります。
 

調べてみました。

 欧州やアフリカでは右は善で左は悪という考え方があります。インドやインドネシアでは、物を手づかみで食べますが、必ず右手を使い、左は不浄の手で、排泄の処理に用います。
 これに対して中国は左優位の文化といわれ、日本も左を上位に置いてきました。

 左右の何れを尊位とするかは、中国でも時代・王朝によって一様ではなく、概ね周時代には左を尊んだとされ、逆に戦国・秦・漢時代には右を尊び、この時代に「左遷」「左降」など左を卑しむ言葉も出現しましたが、六朝時代になると職官に関しては左を尊ぶようになり、唐時代(618~907年)に入るとより一層広く左を尊ぶようになって、以後元時代を除いて清朝に至るまで各王朝とも左を尊ぶことが受け継がれたとされています。

 

 一方、日本では大小・上下にくらべると左右対比は比較的新しい意識のようで、遣隋使・遣唐使などを通じて当時の中国から影響を受けて唐の律令制を模範とする中で、645(大化1)年に左大臣を上位とする左大臣・右大臣の官職が初登場し、以後浄御原令、大宝令を経て太政官・大臣制が整備され定着するに至ったようです。

 当時模範とした中国・唐時代(618~ 907年)の律令制が左を尊位とすることから、飛鳥時代の日本では左大臣を上位とする職官制が採用されたようです。でもその一方では、「左降(万葉集)」「左遷(続日本紀)」など右を尊ぶ言葉の導入も見られ、「右腕」も使う反面「左うちわ」の表現もありますから、職官制での左優位が確立していたとは言え、他の言葉は左右混沌としています。

 これは、職官制の左右の優劣等は君主が南面した際の左=東、右=西などの概念的な意識であることに対して、より直感的な右利き優位の意識が潜在的にあったことによると考えられます。 また、フランスの中国学者ポール・マルセル・グラネ(1884~1940年)の「中国における右と左」では、中国では概して左が尊ばれたが、これはかなり相対的なものであって、必ずしも右が卑しいというものではなく、場合によって変化があったとし、左右どちらを尊重するかは時代・王朝の変遷に限らず、方位・陰陽・男女・儀式の性質・当事者の社会的政治的序列などによっても交代し、矛盾もあったことを述べています。
参考図書:『漢語新辞典(鎌田正・米山寅太郎著)大修館書店』『世界大百科事典・平凡社』

 

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