水戸に行って幕末、改革派として活躍した水戸藩から明治政府の一員として活躍した人がいないので不思議に思っていました。そこで簡単に調べたことを書きます。
幕末期において、水戸藩ほど悲劇的だった藩はなかったのではないでしょうか。悲劇的といえば,会津藩もそうですが、会津藩の場合は藩としてひとつの思想の下に突き進んだものの、時代が彼らに味方しなかったという感じです。それゆえ悲劇的では有りますが、京都での新選組や藩主容保と孝明天皇の結びつき、そして会津戦争での白虎隊など、そこには我々の胸に響く歴史がちりばめられています。しかし水戸藩の場合は,藩を上げて活動する以前に,内部抗争で崩壊してしまった点に,より悲劇性を感じました。
水戸藩は言うまでもなく徳川御三家のひとつです。(尾張・紀伊・水戸)徳川家康の十一男徳川頼房を藩祖とし、二代藩主には有名な水戸黄門こと徳川光圀がいます。水戸藩主は参勤交代のない江戸常府の大名であり、そのため常に江戸にいて、将軍を補佐する役割として”天下の副将軍”などと呼ばれていました。
学問の気風が強い藩で、その水戸学の基本思想は尊王論であり、この思想は幕末の尊皇攘夷思想につながっていきます。幕末期にこの水戸学の大家として全国の尊攘派の志士に大きな思想的影響を与えたのが、藤田東湖や会沢正志斎です。
東湖や正志斎の影響は強く、薩摩の西郷隆盛や長州の吉田松陰、越前の橋本左内らも彼らの薫陶を受けた志士です。こうして水戸発の尊攘思想は時代をリードする思想となりました。
元来水戸藩の内部には保守派と改革派の対立がありました。その根源は寛政期の藤田幽谷と立原翠軒による「大日本史」の編集方針の対立であったといいます。これ以後、藤田派が改革派(尊攘派)、立原派が保守派(佐幕派)となります。両派は事あるごとに対立しましたが、文政12年(1829年)に改革派に支えられた斉昭が藩主に就任することで、保守派は一掃されていました。しかし,安政2年(1855)10月2日に江戸を襲った大地震で改革派のトップとも言うべき東湖が圧死すると藩を取り巻く状況は暗転します。(地震の時東湖は、屋敷から逃げ出したものの、母親がまだ屋敷内にいることを知って引き返し,母を逃がした直後に落下してきた梁の下敷きになったという)
水戸藩が重視した朱子学(儒学の一派)は、日本に限らず、中国でも韓国でも泥沼の派閥抗争を引き起こしています。 排他的で過激な思想であるにもかかわらず、一切事実や現実に依拠しない理念論ですから、どちらの主張が正しいかを判定する方法がないのです。
このように改革派と保守派の内部抗争は幕末激しく対立しました。この長い内部抗争で明治政府の中には水戸藩からは誰もいませんでした。
水戸駅北口にある「水戸光圀」像