昨日(7月16日)「地方議会議員セミナーin博多」の2日目に参加しました。
費用弁償・報酬・視察・海外視察について法的な意味と判例について詳しく教授を受けました。それぞれ地方自治法に規定されており住民監査請求を受けて裁判となり最高裁で判決が下され「判例」として現在生きています。
博多に街に黒田官兵衛の幟が沢山立っています。黒田官兵衛と博多の関わりについて調べてみました。
豊臣秀吉の九州平定の軍監、黒田官兵衛(如水)
黒田官兵衛は豊臣秀吉の九州平定の軍監として、天正14年(1586年)、兵4,000を率いて海を渡り、毛利・吉川・小早川軍とともに豊前小倉城(現・北九州市小倉北区)を攻め込みました。これが官兵衛にとって福岡での出発点でした。
豊前小倉城攻略後、豊前松山城(現・京都郡苅田町)では、豊前の諸将が降伏し、天正14年12月ごろには主な豊前の城を攻略しました。
島津義久の降伏により秀吉の九州平定が一段落した天正15年6月、秀吉は荒廃した博多(現・福岡市)の町に立ち寄り、博多の復興を思い立ちます。世に有名な「太閤町割」という復興プランの策定を秀吉が命じた相手が、官兵衛でした。官兵衛は部下の久野四兵衛に指示し、その年の年末には復興プランが出来上がったといわれています。
秀吉は九州平定の論功行賞を筑前博多の筥崎(現・福岡市東区)に滞在した折に行います。このとき官兵衛に「豊前国(福岡県の北東エリアと大分県の北部)の3分の2」が与えられることになりました。7月に豊前小倉城に移った秀吉は、詳細を決定し、官兵衛に対して豊前6郡を与える知行宛行状を出します。
その後、官兵衛は長政に家督を譲り、「如水軒」と名乗りますが、秀吉の軍師としての役割は続きました。秀吉の天下統一総仕上げとなる小田原攻めや朝鮮出兵でも軍師として派遣され、小田原城の開城や朝鮮出兵の基地となる名護屋城の縄張りで活躍します。
◆キャラクター
全国から107点の応募があり、厳正な審査の結果、「ふくおか官兵衛くん」に決定しました!
住吉神社
住吉神社に立ててある幟(町中に立ててあります)