万歳!!黒田博樹選手

 ニューヨークから、「最後は広島カープで!」と言い続けた男が来春帰ってきます。高額の契約金を蹴って「義理と人情」でカープに帰ってきます。「黒田博樹」選手39歳です・

 

 8月に広島市で起きた8,20豪雨災害がありました。黒田選手はこの一報を聞きつけるや、真っ先に義援金を送りました。「大恩ある広島を思ってのことで、美談にされたくはない」という本人の希望から、その金額は非公表でした。しかし関係者の間では「1000万円は下らない」と言われており、黒田選手の行動は広島市民の胸を打ちました。

 

 黒田選手は高校時代、控え投手でした。大阪の強豪・上宮高校。強豪校といえば、招待試合や練習試合がひっきりなしにあり、エースは投げ過ぎになることも多い。黒田はそんなエースを休ませるためだけに存在していた選手でした。
 たまに得たチャンスでも、ボコボコに打たれてしまう。そのたびに監督から怒鳴られ続けた黒田選手は萎縮し、イップスになりました。イップスとは、精神的な重圧が原因で、思う通りのプレーができなくなる病です。

 華々しく活躍する同級生たちのなか、キャッチボールすらままならない自分。「高校で野球は終わり」。いつしか、ごく当たり前のように、黒田選手はそう思うようになりました。

 しかし、元プロ野球選手の父親と体育教師の母親の強い勧めで、もう一度だけチャレンジしてみて、ダメだったらきっぱりと諦めると決めたのが、専修大学のセレクションでした。

 

 当時の専修大は東都リーグの2部に所属する弱小チームでした。

 そのチームから無名の黒田選手を見つけたのが、苑田聡彦、現在広島のスカウト統括部長です。黒田の一つ年上に、小林幹英というこれもカープへ入団する投手がいました。その小林を見に行ったとき、黒田が目に止まったそうです。

 

 そしてカープに入団しました。そして徐々に力を付けて行きエースへと呼ばれるようになりました。

 

 そして、'06年。その年、FA権を獲得する黒田の去就は、シーズン中から注目を集めていました。黒田選手の最終戦には満員のファンが、黒田の背番号「15」が書かれたボードを手にし、スタンドを真っ赤に染め上げていました。

こんな特大横断幕が—。
〈我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる  Carpのエース黒田博樹〉

 この過程を黒田選手は大変気持ちに感じ、最初に書いた「最後は広島で!」と言う言葉になりました。

 

 また、そのために黒田選手は複数年契約は行わず、何時でも帰れるよう、全て「単数年契約」を通してきました。

 

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