俳句の日

 昨日(8月19日)は語呂合わせで「ハイク(俳句)の日」です。1992年に俳人で京都教育大学教授の坪内稔典さんらが提唱して決まりました。現在、若い人たちにも大変人気が出ているそうです。17音に青春をかける、今年で19回目を迎える「俳句甲子園」。近代俳句を確立した正岡子規のふるさと、松山市で開かれる、高校生の俳句の日本一を競う大会です。
ことしは、過去最多の34都道府県の102校、137チームが予選に参加しました。
 東京家政学院高校の俳句同好会部長を務める3年生の大西菜生さん(17)は、「17音で表せる世界は狭いと思うかもしれませんが、その裏には作者の自由があり、広くていろいろな意味が込められている。俳句は難しいけど、作っているといろいろな驚きや発見があるところが魅力です」と話していました。

 「俳句」という言葉は、明治20年代に正岡子規が作った造語で、「俳諧の発句」を縮めたものです。松尾芭蕉や小林一茶などがやっていたのは実は「俳諧」であって、まだ当時は「俳句」という言葉はありませんでした。

「俳諧」とは「連歌」の形式で滑稽や生活感情などを読み込んだものです。それはいづれも最初に誰かが五・七・五の形式の「発句」をして、それに別の誰かが七・五の形式の「付け句」をするということを続けて何連も続いていくという遊びです。

 しかし後にこの「俳諧」については、単に読み込む内容が連歌とは違うだけでなく、発句のみでやめてしまう形式が出てきました。この時点で五・七・五というものすごく短い形式の詩が誕生したことになります。

 元々滑稽から出発した俳諧ですが、その中興の祖ともいうべき松尾芭蕉はわびさびの境地を五・七・五に読み込み、文学的に高いものにしました。また芭蕉と並び称される与謝蕪村も絵画的な世界の広がるような詩を多数残しました。これに対して室井基角や小林一茶などは詩としての品質を落とさないまま俳諧の原点の滑稽さというものを再び取り入れました。

「俳句」という言葉が生まれた明治以降は新傾向の句を作る人たちとして種田山頭火など、伝統的形式を重んじる人たちとして高浜虚子・山口誓子らが出ています。そして現代にいたると海外でもこの俳句が注目されてHaikuが生まれ伊藤園の世界コンステトなどで優秀な作品が生み出されています。

 なお、「俳句」と同じ五・七・五の形式で風刺性の強いものは「川柳(せんりゅう)」といいます。これは俳句が連歌形式の先頭であったのに対して、現在同じ形式になっているとはいえ元々は短歌の前付け句から発達したもので起源が異なります。「川柳」の名前は江戸時代の川柳評者、柄井川柳から出たものです。
                        (インターネット記事引用)

 

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