朝6時にホテルを出発して8時35分発フランクフルト空港からポーランド クラフク空港に行きました。10期過ぎから車でポーランド南部の「オシフェンチム市」郊外の広島の「原爆ドーム」と同じ負の遺産として世界遺産となっている、「アウシュビッツ強制収容所」に行きました。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収所
ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所です。収容された90%がユダヤ人でした。
アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。
アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)
1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000~16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっている。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノヴィッツ」を含め、アウシュヴィッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。
入り口には「ARBEIT MACHT
FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考える向きもあるが、実際にはこの書体は当時の流行であった。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房などといった具合に分けられている。また、アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設がつくられたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。
入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のゲート
毒ガスの入っていた缶
銃殺刑が行われた「死の壁」
ビルケナウへ引き込まれた鉄道の駅後
当時の駅の模様