昨日(4月23日)「千田貞暁翁 築港128年記念式典」が「宇品築港記念碑」(千田廟公園 宇品新開地の記念碑等 (南区宇品御幸一丁目8)の前で10時から行われました。
宇品築港と千田貞暁
宇品港は、当時の広島県令千田貞暁の尽力により、明治17(1884)年に広島県営の港として着工し、多くの多難を乗り越え、5年の歳月をかけて明治22(1889)年に完成した。
千田貞暁は、明治13(1880)年東京から海路赴任した。宇品島の沖合いから小船に乗り換えて、船着場(現在の皆実町)を目指したが浅瀬に乗り上げ、遠浅を歩いて上陸したという。県内を巡視すると道路は悪く、物資は停滞していた。当時まだ鉄道はなかった。広島の産業の発展のためには、道路と港湾の整備を痛感した。そこで、「宇品港」と「宇品新開」(埋め立て)を決断した。港と新開地の築造で18万円余りかかるが、県の予算はない。できるだけ低い工事費と費用捻出に苦悩した。
工事が始まっても順調には進まなかった。干拓によって漁場や牡蠣の養殖場など生計の場を失う地元住民の反対運動が起こった他、干満の大きな水位差で、潮止め部分や築堤が二度も決壊した難工事だった。さらに台風や悪天候でも大きな被害を受けた。これらの要因などで、当初の費用を大幅に上回り30万円と工期5年3ヶ月を要した。費用のうち14万円は私財を投じた。多大な国費を費やした罰として、明治24(1891)年4月の竣工式を待たずして、広島県令を更迭され広島を去ることになった。
沿岸住民等の猛反対を押し切って,最後は,私財までを投じて,1889年に宇品港が完成しました。当初,宇品港は,無用の長物と見られていましたが,日清戦争が始まったことや,山陽本線が広島まで開通したことで,対中国大陸の戦争のための絶好の派兵拠点となりました。そして,広島に大本営が置かれることにもなったわけです。
そのため,広島市は,千田貞暁に1898年感謝状を贈るとともに,千田貞暁死後の1908年「宇品築港記念碑」を建設しました。1915年には,「千田貞暁の銅像」が,1925年には,「千田神社」を建設して,毎年4月23日には祭典が行われています。広島大学跡付近にある「千田町」という名前も千田貞暁の名前から取ったものです。また,千田貞暁が,広島繁栄の恩人として,盛大な千田祭が行われています。
千田貞暁翁 銅像
千田神社
從軍記者の心得となった「行かばわれ 筆の花散る処まで」という「子規句碑」
(俳人、正岡子規が1895年3月従軍記者として中国に派遣されるとき、宇品港にたちより、20日間広島に滞在した時詠みました)