元号

 平成31年から新元号が変わるということから、にわかに元号への注目が集まっていいます。
 元号はこれまでに247あり、日本が世界に誇る伝統文化の一つです。
 しかし、その歴史や選定の経緯などはあまり知られていません。「明治」から「平成」までの元号について調べてみました。

 

明治
 「明治改元にあたっては、学者の松平慶永がいくつか選び、それを慶応4年(明治元年)9月7日の夜、宮中賢所において、その選ばれた元号の候補の中から明治天皇御自らくじを引いて御選出されました」(明治神宮 ホームページ)

 

 つまり、「明治」はくじ引きで選定されました。一説によると、王政復古の大号令によって重要な物事を占いで決めていた古代の風習に立ち返り、くじ引きが採用されたといわれています。

 

大正
 明治45(1912)年、明治天皇が病気で昏睡状態となったことを受け、新元号作りが進められた。学者らが考案した数多くの候補から「大正」「天興」「興化」の3案に絞り込まれると、最終的に天皇の諮問機関である枢密院が「大正」を選択しました。大正天皇の勅定(ちょくじょう)によって同年7月30日に改元されました。

 

 大正から昭和への改元では、世紀の大誤報で世を騒がせた「光文事件」が起きました。
 大正15(1926)年12月25日未明、大正天皇の崩御直後に毎日新聞の前身である東京日日新聞は、他紙に先駆けて「新元号は光文」と号外で報じました。

 

 大正天皇は病弱だったため、大正10年から皇太子の裕仁親王(昭和天皇)が摂政についていました。大正天皇は葉山御用邸(神奈川県葉山町)で療養していたが病状は好転せず、次第に天皇の動向をめぐって新聞各紙の取材合戦が過熱。中でも新元号は誰もが狙っていた特ダネでした。

 そんな中で新元号報道がされたため、事実であれば大スクープでした。だが、政府が発表した新元号は「昭和」でした。スクープが一転、歴史に名を残す大誤報となってしまいました。

 

昭和
 宮内省は図書寮編修官の吉田増蔵氏が考案した「昭和」「神化」「元化」の3つに絞り込みました。一方、当時の内閣も「大正」を考案した国府種徳氏に命じ、「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の5案を作成させていました。(「日本年号史大辞典 普及版」(雄山閣))

 こうして宮内省から3案、内閣から5案が出されて精査した結果、「光文」を含む国府案はすべて姿を消し、吉田案の3つが残りました。中でも「昭和」が最有力候補として枢密院に提出され、これがそのまま決定されました。

 

平成
 平成は「国の内外にも天地にも平和が達成される」という意味が込められています。また、平成が選ばれる際、「修文」と「正化」も候補にありましたが、いずれも頭文字のアルファベットが「昭和」の「S」と同じで紛らわしいとの意見もあったことから「平成」になったとも言われています。

 

 平成元年(1989年)1月8日。竹下登内閣の小渕恵三官房長官が「平成」と書かれた台紙を掲げるシーンを私はよく覚えています。

 

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