昨日(1月17日)は阪神淡路大震災の日でした。福井新聞ONLINEの「越山若水」のコラムに次のような記事が載っていました。
▼瀬戸内寂聴さんは、忘れることを人にとって「恩寵(おんちょう)であり劫罰(ごうばつ)である」と言っている。人はつらさを忘れるから前を向けるが、どんなに大切だったことでも思い出さなくなるときがある。
▼五木寛之さんは、13~14歳の記憶が空白に近いという。敗戦間もなく母が死去。その1年後に平壌(ピョンヤン)を脱出、米軍の船で博多に着いた。この激動の詳細をなぜか覚えていない
▼五木さんは理由を「それを思い出すことが、自分の存在を根本からゆさぶることになると予感する」「忘れることで自分を守っている」(新版生きるヒント2)と考えている。恩寵になったのだ
▼阪神大震災からきょうで24年。筆者もあの日の自宅の揺れが鮮明に思い出せるから不思議な感じはするが、これほどの年月がたった
▼つらさに遭った人がそれを忘れつつあっても、もう自然なことではないか。もちろん風化を許さず災害の備えを怠らないのはとても大事だが、それはまた、別のことである
▼一方、東日本大震災からはまだ8年足らず。忘れようもなく過ごす人たちがいる。岩手県大槌町の旧役場庁舎は解体に賛否があるが、きょう差し止め訴訟の判決が出される
▼娘を失った父は「遺族には慰霊の場」と漏らす。けれど建物を見ること自体がやりきれないという人もいる。結論はいずれかに出るが、それぞれの気持ちを支える手だてがどうしても要る。
おんちょう【恩寵】
① 神や君主の愛やめぐみ。
② 〔grace〕 キリスト教で、人類に対する神の愛。ただしプロテスタントでは、神の恵みと訳すことが多い。恩恵
ごうばつ【劫罰】
地獄に落ちたような苦しみを与える罰。
〘名〙 永久に続く罰。永遠の断罪。
(福井新聞ONLINEの「越山若水」引用)